カワイがかつて製造していた伝説のエレキギター「ムーンサルト」。その独特な三日月型のフォルムと、指板に刻まれた月の満ち欠けのデザインは、今なお多くのギターファンを魅了し続けている。そこで、ムーンサルトの開発者である稲見隆博氏と、最新作『THE BAND』において主人公の愛器としてムーンサルトを採用した漫画家ハロルド作石氏が初対談。稲見氏の事務所で貴重なギターコレクションに囲まれながら、なごやかな会話が繰り広げられた。
漫画「THE BAND」1巻の表紙
< プロフィール >
稲見隆博(いなみ・たかひろ)
1947年生まれ。1970年河合楽器製作所入社。エレキギターの設計・開発に従事し、「ムーンサルト」をはじめ数々のオリジナルギターを手がける。2007年定年退職後、ギターパーツの輸入・製造販売を行う「i-Wave Music」を設立し、2018年に「i-Wave株式会社」として法人化。
ハロルド作石(はろるど・さくいし)
1969年生まれ、愛知県出身の漫画家。代表作に『ゴリラーマン』『BECK』『RiN』『7人のシェイクスピア』など。最新作『THE BAND』を月刊少年マガジンで連載中。作品に登場するギターへのこだわりと緻密な描写で音楽ファンからも高い評価を得ている。
(左)ハロルド氏 (右)稲見氏
エレキギターの全盛期をリードしたカワイ
稲見:先生、カワイが以前ギターを作っていたということはご存知でしたか?
ハロルド:いや、まさかカワイさんがギターを作っていたとは! ピアノと電子ピアノのイメージでしたから驚きました。
稲見:実は私が1970年に入社した時は、日産2000本ものギターを作っていたんですよ。月の稼働日数が25日ですから、月産で約5万本。世界で一番多く作っていたんです。
ハロルド:1日に2000本も生産していたということですか!? すごいですね。
稲見:そうなんです。でも実は全部アメリカ向けのOEM(※他社からの依頼を受けて、そのブランド名を冠した製品を製造すること)だったんですよ。私が入社した時も「カワイブランドのギターがたくさんあるだろうな」と期待していたんですが、実はオリジナルは1本もなくて全部OEMだったので残念でした。
ハロルド:それは確かにちょっと寂しいですね。
稲見:ところが、1971年のドルショックと1973年のオイルショックで状況が一変したんです。急激な円高になったので、アメリカのバイヤーが一斉に引き上げてしまった。日産2000本作っていたのが、いきなりゼロになってしまったんですよ。「さぁ、どうしよう」ということで、初めて「カワイブランドでオリジナルギターを作ろう」という話になったんです。
ハロルド:なるほど、ピンチがチャンスに変わったという訳ですね。
稲見:そうです。それ以降、カワイではオリジナルのギターを生産し始めました。私はギターの設計・開発の担当だけでなく、カタログのデザインや広告なんかまで、すべて自分でやってました。
ハロルド:実は僕が子どもの頃に父がギター工場で働いていたんです。幼稚園に入園する前ぐらいなので記憶は曖昧なんですが、家で残業をしている父の横で奇抜な形のギターを見ていた記憶があります。後になって古い本で調べてみたんですが、どのギターだったのかはわからないんですけどね。
稲見:その頃の日本には、テスコをはじめ多くのギターメーカーがありましたからね。テスコも昔のベンチャーズ時代のトップブランドでしたが、倒産後にカワイが吸収しました。20年ほど経ってから雑誌で再評価されて、復刻版も作ったんですよ。
ムーンサルトとの運命的な出会い
稲見:『THE BAND』では主人公の男の子がムーンサルトを弾いていますが、そもそもなぜムーンサルトを選ばれたんですか?
漫画「THE BAND」1巻の表紙
ハロルド:実は漫画家という職業病のせいか、僕は利き腕側が全部悪いんですよ。首、肩、肘と痛みがあって。普通のギターだと肘を開いて構えるじゃないですか。その姿勢が肩にめちゃめちゃ響いて痛いので、手首だけで弾けるギターを探していたんです。
稲見:なるほど、ムーンサルトは人間工学的にも理にかなっていたということですね。
ハロルド:そうなんです。最初はアメリカの「DEVO」というロックバンドが使っていた細長い棒みたいなギターを探していたんです。そうしたら偶然カナダの工房のサイトでムーンサルトの復刻版を見つけて、「とんでもないものがあるな! 」と衝撃を受けました。
稲見:それがムーンサルトとの出会いだったわけですね。漫画の主人公にこれを使わせようと決めた理由は何ですか?
ハロルド:決定的だったのが指板の月の満ち欠けです。これを見た瞬間、主人公がギターを練習した月日を表すシーンがパッと頭に浮かんで、「このギターしかない! 」と。実際に渋谷の販売店で黄色い実物を見た時は、SNSで見るよりはるかに格好良くて。翌日買いに行こうと思ったら店が長期休暇に入ってしまったので、結局はネットで深い紺色のムーンサルトを購入しました。漫画ではそれと同じものを描いています。
稲見:先生が持っていらっしゃるモデルはMS-80という90年代の復刻版ですね。ムーンサルトとは本当に運命的な出会いだったんですね。
ハロルド:そうですね。でも実は、今日はカワイの皆さんに怒られる覚悟で来たんですよ。御社のギターを勝手に漫画に描いちゃったので(笑)。
稲見:いえいえ、むしろ社員一同、大喜びだと聞いていますよ。表紙に「KAWAI」のマークが描かれているのを見て、みんな「載ってるー!」と大興奮だったそうです(笑)。
宇宙への憧れから生まれた独創性・ムーンサルトの開発秘話
ハロルド:僕は稲見さんからムーンサルトの開発秘話についてぜひ伺いたいんですが。
稲見:ムーンサルトの開発には、実は明確なテーマがあったんですよ。
ハロルド:それは一体どんなテーマですか?
稲見:「宇宙」です。当時の日本の風潮を振り返ると、1968年の映画「猿の惑星」から始まって、1969年のアポロ11号月面着陸、そして1972年のミュンヘンオリンピックでカワイの体操部員だった塚原光男選手が披露した「月面宙返り(ムーンサルト)」と続き、もうこれは「宇宙しかない! 」と。
ハロルド:なるほど。ムーンサルトの三日月型のボディ、星形のヘッド、月の満ち欠けの指板、全部宇宙の象徴ですもんね。ちなみに、アポロが月に着陸した1969年は僕が生まれた年です(笑)。
稲見:ムーンサルトを開発後、1977年の楽器フェアで発表する前に意匠登録を行い、フェアでの評判も良かったので翌78年に発売しました。当時は企画も、デザインも、設計も、図面引きも、パーツ集めも、全部自分でやりました。私は人に任せられない性格なんですよ(笑)。
ハロルド:そうか! きっと稲見さんのその性格が、ギターに内蔵ディストーション回路や多彩なピックアップ切り替えスイッチなどの色々な機能をつけて、「これ1本で完結するように」っていう独自の発想につながったんですね!
稲見:まさにその通りです。実は機能だけでなくカラーも独自性にこだわったんですよ。「宇宙色」「銀河色」「月光色」なんて、どこのメーカーにもない日本語の名前をつけてね。中でも私が一番気に入っているのは、月光色のムーンライトイエローです。先生が所有されている紺色のムーンサルトは「宇宙色」と呼んでいたカラーです。
ハロルド:なるほど。ムーンサルトは色だけでなく素材も凝っていますよね。
稲見:そうですね。例えば指板の月の満ち欠けの部分には白蝶貝を使っています。また、三日月のボディの外形には(緑に輝く)メキシコ貝を埋め込んで有ります。これは職人が一つ一つ瞬間接着剤で貼り付けていったものなんですよ。当時の工場には家を一軒建てられるレベルの職人さんがいましたからね。そういう職人技があったからこそ、ムーンサルトを製品化できたんです。私は当時の設計図面や当時のカタログ、仕様書などを全て保管しているんですよ。
ハロルド:それは素晴らしい! 設計図が残っているのなら、ムーンサルトの復刻も夢じゃないですね。
登場人物のキャラクターに合ったギターを選択
稲見:先生はムーンサルトを実際に弾かれることがあるんですか?
ハロルド:漫画の参考程度に「どういう音がするのかな」と確認する程度です。でも、まともには弾けません。
稲見:前作『BECK』でもいろんなギターを描かれていますよね。
ハロルド:はい、『BECK』の時はいろんなギターを描きました。でも、今回『THE BAND』を描くにあたっては、主人公の友平にはどうしても日本のギターを持たせたいというこだわりがあったんです。それで、日本製のエレキを探している時に、ムーンサルトというとんでもないギターを見つけてしまったという訳です(笑)。
稲見:主人公がムーンサルトを弾いている予告イラストを公開された時の反響はどうでしたか?
ハロルド:大変反響があったと聞いています。「ムーンサルトだ! 」とすぐにわかった方々がいらっしゃったようで、まさに伝説のギターなんだなと実感しました。
稲見:おっしゃる通り、ムーンサルトは今でも人気が高いようですね。他の登場人物が使うギターはどうやって選んでいるんですか?
ハロルド:例えば、背丈があまり高くない女子高生にはちょっと小さめのベースを持たせるとか、キャラクターに合わせて選ぶようにしています。中高生の頃はなるべく安価なものを持たせるといった年代的なことも考えていますね。
稲見:なるほど、ちゃんとキャラクターに合わせてギターを選ばれているんですね。これからどんなギターが登場するか楽しみです。
ものづくりのチャレンジ精神を次世代へ
ハロルド:稲見さんは、ムーンサルトをはじめ、伝説に残る数々のエレキギターを開発されてきましたが、カワイの後輩社員の方々に伝えたいメッセージはありますか?
稲見:私は出世街道を振り切ってギター一筋でやらせてもらったので、会社には自分のわがままを許してもらえたことに感謝しています。ですから、後輩たちにも「上を目指すのもいいけれど、自分のやりたいことを追求する生き方もあるよ」と伝えたいですね。
ハロルド:カワイさんの本社がある「浜松」という土地には、何か特別な力があるような気がします。僕は浜松が大好きで何度も来ているんですが、カワイさんをはじめ、多くのメーカーが集まるこの土地には、ものづくりのオリジナリティを追求する気運がありますよね。
稲見:そうですね。カワイでも昔はボーリングのピンやスキーの板まで作っていたんですよ。ボーリングのピンは、ギターやピアノと同じメープル材と塗装技術で作っていたんです。カワイにはこうしていろんなことにチャレンジしてきた歴史があります。ですから今後もそういうチャレンジ精神を持ち続けてほしいです。
ハロルド:そうですね。またムーンサルトのような伝説のギターを生み出していただきたいですね。今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました!
稲見:こちらこそ、ムーンサルトを漫画で使っていただいて本当に嬉しいです。これからも楽しみにしていますので頑張ってください!
エピローグ
独特な三日月フォルムのギター「ムーンサルト」。50年前に日本で生まれたこのギターが、今、漫画『THE BAND』の主人公の相棒として新たな世代に受け継がれようとしている。カワイが培ってきた職人技とチャレンジ精神、そして「宇宙」への憧れから生まれた独創的なギターは、時代を超えて音楽を愛する人々の心をつなぐ存在として、これからも輝き続けていくはずだ。
『THE BAND』絶賛発売中
ライターご紹介
ライター 小川 あきみ
静岡県浜松市在住。立教大学文学部卒。人物インタビュー、住宅紹介、企業情報など幅広い分野で取材・執筆を続けて30年余り。一人ひとりの想いに寄りそう取材と、心に響く文章づくりを心がけています。